秋、入院翌日から計5クールの予定で治療が開始しました。
約1週間抗がん剤を投与して、3週間は骨髄抑制の程度や合併症の有無など観察しながら、骨髄穿刺検査をして正常な白血球数が増えるのを確認し、一時退院という治療を5回繰り返しました。
夫は担当医師団を信じ、身を任せて病気を克服すると決断していました。嘆いたり、取り乱したりする様子もなく粛々と病気を受け止める姿に夫の気持ちの強さと、家族への思いやりと優しさを感じました。
抗がん剤治療に伴う副反応については出来る限り抑えていきますと、医師から説明されました。
それでも様々な消化器の症状や頭痛、倦怠感、発熱、眩暈、痛みなど常にあったと思います。
1クール目より2クール目は体力が落ちて、抗がん剤投与後は骨髄抑制が強くなり肺炎をおこしたり、輸血の回数も増えました。2クール目が終了し、一時退院の時は悪い細胞は0.5%になり順調な経過と言われ私達は喜びました。一時退院は家族全員と自宅で過ごす穏やかなひとときでした。
夫は4人兄弟です。近くには長兄と弟がいて、よく病室を訪ねてくれました。遠くに住むもう一人の兄も励ましのために会いに来てくれたり、私達家族をいつも支えてくれました。他にも職場の方、友人などの普段と変わらない会話は心をほぐしてくれました。
3クール目は大変な治療期間となりました。抗がん剤投与中から発熱があり、食べられなくなっていました。投与終了後から8日目に敗血症になりました。私は病室に泊まり、付き添うよう言われました。
骨髄抑制が強いところに、グラム陽性菌の感染が起こったのです。
23時過ぎ、担当医にスタッフルームへ呼ばれ、「抗生剤投与をはじめたが、いつから効果が現れるか不明です。明日から白血球数を増やすための薬を投与しますが大変危険な状態です。今夜を乗り越えられればよいのですが。覚悟はしていてください。」と告げられました。高熱、意識障害、血圧の低下、全身の痛み、発赤等の症状でした。
私は頭の中が落ち着かないまま、病室に戻り冷静になるよう医師からの説明を思い出しメモに書きました。言われた通り、間違いの無いように。
今思えば、おかしな話ですが私は夫がこのまま死んでしまうとは思えませんでした。
必ず、明日を迎える。きっと薬が効き始める、大丈夫と。
何故なのかわからないけど、そう思えたのです。ただの願いだったのかもしれません。
次の日、朝早い時間に義兄に泣きながら電話をかけると兄夫婦が急いで駆けつけてくれました。
医療スタッフ皆さんのお陰で2日後には飲水できるようになり、5日後にベッド上でのリハビリが始まり少しずつ回復しました。でも記憶障害がしばらく続きました。すぐに今行ったこと、誰が来たかなど忘れてしまうのです。とても心配しました。医師から一時的なことだと思う、と言われた通り、日を追うごとに良くなりホッとしたものです。
夫は今でもこの時期の約10日間の記憶が全くないそうです。
本人は覚えていないかもしれませんが、あんなことやこんなことが色々あったんだぞ!!
私は大変苦しい日々をすごしたんですよ~と心の中で叫ぶ。まあ、覚えてない方がよいこともありますね。いっぱい痛かったし、苦しい思いを抱えて治療してきたのだから。
その後の4、5クール目は抗がん剤の量を調整し投与。再度、肺炎を起こしたりしましたが、危機的状態はなく治療を終えました。そして、ついに寛解を迎えました。
3月になっていました。長男は高校を卒業し、一人で新生活の準備を終えていました。飛行機で1時間半の新たな世界へと巣立っていきました。長女は兄と離れたため、新たに部屋を借り高校2年生の1人暮らしがスタートしました。長らくお世話になった私の両親も戻って行き、待ちに待った「いつも通りの」小学校2年生になった次女との3人暮らしです。
「いつも通り」がどんなに有り難く尊いことか、幸せなことかと思った日々でした。
夫は2か月程度の療養をして仕事復帰することになりました。私も仕事を再開することにしました。
夏から秋へ、そして冬へ。静かに季節は変わっていきました。
12月の定期受診で再発を告げられました。
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