今朝母親が入院するため病院へ送った帰りにスーパーへ行きました。そこで同僚と会ったのですが、首にカラーを付けていたので驚きました。彼女はとても優秀な看護師です。と、同時にお子さんをお持ちのお母さんでもあります。仕事をしている彼女には優しく、気配りのある、そして看護師として向上心のある頑張り屋さんという印象をもっています。
そんな彼女が夏前、体調を悪くしていました。私は週2~3回しか仕事に出向かない不真面目な仕事人ですが、彼女の変化は感じていました。いつもはハツラツと優しい表情なのに、疲れのようなモノを感じていたのです。同じ職場といっても、担当の科が違うため廊下で偶然すれ違う時しか会うことがなかったので、気がかりでした。
ある日、声をかけると不調があり検査をしていると話しがでました。検査後も不調が続き、それでも仕事に出てきているそう。私は彼女からの言葉が気になりました。検査のために入院していたので仕事を休んだことで仲間に迷惑をかけていると、一番にその事をつらそうに話すのです。真面目な責任感のある性格なんだなと改めて感じると共に、何でそんな事を気にするのかと思いました。
看護師の仕事に責任や、やりがいを感じて頑張っているのは理解できるけど不調な時に同僚のために頑張る必要はないのではないかなと考えてしまったのです。家に帰れば、小さな子供達がいるので体がきつくても動いているはずです。私はお節介な性格が出てしまい、自分の体を一番に考えて次は家族、仕事はその後でいいのではと言ってしまいました。彼女の青白い顔と生気のない表情を前に、つい口に出てしまったのです。その後も元気のない彼女が働いている姿を目にしていました。
今日、しばらくぶりに偶然会って彼女の状態に驚いたのです。
彼女は仕事を休んでいることや、大きな病院で治療を受けていることを話しました。そして相変わらず休んでいることで仲間に迷惑をかけていると言い、私が以前話した大切にするものの優先順位を良く考えています。とチカラない顔で言いました。私はゆっくり休んで欲しい、無理しないで欲しいと伝えました。酷なようだけど、仕事をする人間の代わりはいくらでもいる。でも彼女自身の代わりはいないのです。それは言わなかったけど頭のいい彼女は解っていることでしょう。
私達は他の病院、とりわけ都会の大きな病院へ行くと自分達のしている医療や看護と比べてしまいます。患者さんは同じ医療費を払っているのに受ける医療サービスがこんなにも違うのかと身を持って体感します。そして自分達はもっとできることがあるのではないかと考えます。
私は息子の病気を通して東大病院や東京女子医科大病院、帝京大学病院とお世話になりました。そこで医療、看護を受けた経験があります。その度に北の小さな町にある私が勤務している病院と比較していました。彼女も大きな病院を受診して、自分達の行っている看護について沢山感じることがあったと以前から話していました。今回も彼女から、その話が出ました。彼女の仕事への熱意を感じます。そして、今の病院では彼女のチカラがなかなか発揮できない事を彼女もわかっていると思います。
私はこの病院へ新卒として入職しました。当時35年前は正看護師(今は正看護師とは言わないです。)が数えるほどしかおらず、准看護師のベテランが多かったので当時の私は何もかもが苦しかったものです。まあ、そこは省いて。今は看護師と准看護師の比率は大逆転していますが、なにぶん病院自体の経済的な不足、医師不足、看護師不足、各技師不足、医療事務不足により医療サービスは胸を張れるモノではないです。志高い医療スタッフは心が折れることが多いと思います。
私も遠い昔は高い志がありました。様々な障害があるものです。理想と現実です。一人では何もできないし、仲間とも足並が合わない、リーダーとなる人とも合わせられないとなると、自分が変わるしかないと考えます。今の自分にできる最良のことをできる範囲でやろうという考えに至ったのです。
ないモノねだりをしていては、苦しい。あるモノで工夫する。それでも、ないモノを手に入れたければ違う場所へ行く。それで自分のしたいことをする。彼女には体調を整えてから、看護師としての素晴らしいチカラをどこかで開花して欲しいと老婆心ながら願っています。
ちなみに、私は自分らしい生き方を優先し、バリバリの看護師から早期離脱して尚も細々と年寄り看護師として働いています。田舎だから需要があるんだと有り難く感じ、自分なりに頑張ってます。
大都会の立派な病院にはその役割があり、地方の病院にはまたその役割がある。医療サービスの格差をなくし均一化することは最優先事項だと理解している。微力ながら努力をしつつ、出来ることに努めていこうと思う今日この頃です。
コメント