夫は1度目の寛解から約9か月、職場復帰し体調が戻り始めたように感じていた12月の定期受診時に、再発していると告げられました。驚きました。
退院時に再発の可能性は30%、その時にはまた抗がん剤を使用し、造血幹細胞移植が必要と話があり、兄弟間で移植に適した人がいる可能性は25%と聞いていました。
長兄に相談すると、すぐに3人の兄弟は検査を受けてくれました。
大変幸運なことに、弟の白血球のタイプが夫と適合していることがわかりました。
弟家族に移植を協力してもらえるか、移植に伴うリスク含めての説明を受けてもらいました。
白血球を増やす薬を弟の体に注射し、造血幹細胞を骨髄から血液中にあふれださせて、4日後以降に入院し静脈より血液を取り出し、そこから造血幹細胞を採取するのです。
弟の体への負担も大きかったのです。
大切な家族があり、仕事も多忙な弟にとって不安だっただろうし、覚悟のいることだったと思います。
義妹や姪も大変不安だったと思います。
でも、快諾してくれたのです。弟が救いの手を差し出してくれました。
兄弟がいたこと、健康な体であったこと、仲の良い関係であったことの全てに感謝しました。
弟は長時間かけて造血幹細胞を透析室で採り終え、「兄ちゃん、すごい経験ができたよ。」と夫の病室に入ってきました。
その時の弟の笑顔と優しい心遣いを、忘れることはありません。
再発から移植まで約3か月ほど間がありました。私達家族がどんな風に過ごしていたか、よく思い出すことができません。次女をまた実母にお願いし、長女のアパートを基点に行ったり来たりの日々だったのは間違いありません。ちょっと動揺が大きすぎて記憶が飛んでるのかな。
二度目の離れて暮らす生活は次女とって、以前より精神的な不安や孤独感が大きく、私は自宅で次女と過ごす時間を多く持つようにしていました。
夫は病院内にサポートしてくれる人がいる。そして近くに長女もいてくれる。
小学2年生の次女には私でなければならない、と考えるようにしました。
長女は高校生活が忙しい中、私が病室へ行けない時に何度も何度も病室を訪れてくれました。
息子は既に遠く離れて暮らしていましたが、休みの続く時には夫に会いに来ていました。
3月、夫は移植準備のための歯の治療や検査も終わり、強い抗がん剤投与が二日間スタートしました。
今までと違い投与開始直後から嘔吐していると聞いて、不安がる次女を説得し、明朝一番の列車で病院へ向かいました。私のなかには敗血症になった時の恐怖が常にあり、怯えていました。
続けて、全身の放射線照射を3日間。
抗がん剤と放射線照射の副反応からか、夫の表情は一気に暗く沈んだものになっていました。。
食事は全くとれず、水を飲むこともできず、動く度に吐き、不意に眠ったり。ソワソワと落ち着かない様子だったり。辛いねと声をかけると、辛いとか言うなと怒ったりしました。
夫は病気になってから、変わらずに医師を信頼し、治ると信じて治療をうけていました。
何より、尊敬する上司から贈られた言葉を繰り返し、口にしたり、文字にしたり自分を鼓舞していました。食事・水分量・排泄のチェック表の上に必ず、その言葉を書き記していました。
「心おだやかに一歩づつ」この言葉に支えられて、夫は苦しい日々を乗り越えていました。
移植前日は、担当医師や移植コーディネーターさんが夫の不安な気持ちを、長い時間聞いてくれたそうで柔らかな表情でした。
家族には言えない気持ちがあって当然です。聞いてくれた人がいて良かったと思う反面、少し寂しい気持ちもありました。私は子供達にばかり目がいって、夫を支えきれてないのかもしれないと思いました。
移植当日は家族全員で病院にいるよう、医師から言われていました。移植によるショックを起こす可能性があると説明があり、息子にも戻って来てもらっていました。
急な変化があったらと、とても不安でした。
無菌室の中では担当医師3人と看護師1人が準備を始めていました。
私は移植片対宿主病での苦しい日々が、今日から始まるのだと緊張して夫を見つめていました。
夫と先生達は笑顔をみせて私達家族へ手を振りました。
定刻通りに、弟から採取した薄い綺麗なピンク色の造血幹細胞を移植開始。
30分程度で終了。この間、滴下していく弟の細胞が定着してくれるよう祈っていました。
終了後、医師からは「何事もなく終わって良かったですね。今後は皮膚や粘膜症状が出ますが乗り越えられるでしょう。熱が出なければいいですね、2~3週間で元の病室へ戻れると思います。」と落ち着いた表情で伝えられました。
私は順調に進んでいると安心し、子供達を連れて病院を出ました。
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